Wikisource jawikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 MediaWiki 1.39.0-wmf.25 first-letter メディア 特別 トーク 利用者 利用者・トーク Wikisource Wikisource・トーク ファイル ファイル・トーク MediaWiki MediaWiki・トーク テンプレート テンプレート・トーク ヘルプ ヘルプ・トーク カテゴリ カテゴリ・トーク 作者 作者・トーク Page Page talk Index Index talk TimedText TimedText talk モジュール モジュール・トーク Gadget Gadget talk Gadget definition Gadget definition talk 利用者:村田ラジオ/sandbox 2 28291 188764 188490 2022-08-18T03:52:50Z 村田ラジオ 14210 ページの白紙化 wikitext text/x-wiki phoiac9h4m842xq45sp7s6u21eteeq1 188765 188764 2022-08-18T04:04:54Z 村田ラジオ 14210 ワルソノフィイ5 187まで wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|祈祷惺々集|hide=1}} {{header | title = 祈祷惺々集 | section = 聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(5) | year = 1896 | 年 = 明治二十九 | override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|斐沃芳〔フェオファン)]] (19世紀) | override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} | noauthor = | previous = [[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4)]] | next = | notes = *発行所:正教会編輯局 }} <b>聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓</b> ::<b>祈祷と清醒の事</b> 百六十二、 {{r|幾何|いくばく}}の能力を有するありとも自ら{{r|何人|なにびと}}よりも{{r|卑|ひく}}く{{r|視|み}}んことを{{r|強|つと}}めて日夜己を{{r|卑|ひく}}うすべし。{{r|是|こ}}れ真実の{{r|路|みち}}なり、此の{{r|外|ほか}}の{{r|路|みち}}あるなし。 百六十三、 もし我れ誰彼となく不適当に動作するを見る時は我れ其の不適当を批判するを得るか。さらば此れより流るゝ近者を{{r|議|ぎ}}するの議を{{r|如何|いかん}}して{{r|逃|のが}}るべきか。――実に不適当なる行為は{{r|我|われ}}{{r|儕|ら}}これを不適当と認めざるを得ず、けだし然らずんばこれより生ずる所の害を我等いかにして避けんや。されどもかゝる{{r|行|おこなひ}}を為す所の其人を{{r|議|ぎ}}すべからず、聖書に『人を議するなかれ汝議せられざるを致せ』〔[[ルカによる福音書(口語訳)#6:37|ルカ六の三十七]]〕といふに依るも又我等は自ら己を悉くの人より{{r|尚|なほ}}罪なる者と認むべきに依るも{{r|且|かつ}}兄弟の罪を犯せるを我等は己の犯せるものと思ひて{{r|唯|ただ}}其の彼を誘惑したる{{r|魔鬼|まき}}を憎むべきに依るもかくの如し。誰か他を{{r|坑|あな}}に{{r|擠|お}}したらんには我等は{{r|其坑|そのあな}}に陥りし者を責めずして彼を{{r|擠|お}}したる者を責む、{{r|此処|ここ}}に於ても実にかくの如し。人の事を為すや其の見る者の為には適当ならざるが如くに見ゆるも{{r|其|その}}{{r|為|な}}す者の善意によりて行ふの場合あり。さればこれと同じく我等も{{r|亦|また}}其の罪を犯したる兄弟が既に己の謙遜と信認とに由り悔改をもて神の喜ぶ所となると否とを知らざることあり。<u>ファリセイ</u>人は己が{{r|自誉|じよ}}の為めに定罪せられて{{r|退|しりぞ}}けり。此を知りて我等は{{r|税|ぜい}}{{r|吏|り}}の謙遜に{{r|法|のつと}}り自ら己を罪せん、義とせられんが為なり、又<u>ファリセイ</u>の{{r|自誉|じよ}}を避けん、定罪せられし者とならざらんが為なり。 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神の機密の事は{{r|或|あるい}}は探問するを要するか。又罪人は機密に{{r|就|つ}}き{{r|不|ふ}}{{r|當|とう}}なる者として定罪せらるゝか。――<u>ハリストス</u>の体と血とをうけんが為めに聖堂に{{r|来|きた}}りてこれをうくるあらば此の{{註|機密の}}真理に{{r|疑|うたがひ}}なく{{r|信|しん}}を置くやうに己れに注意すべし。されども此の機密の{{r|如何|いかん}}を好んで探問するなかれ『此れ我が体なり此れ我が血なり』といはれし如く{{r|其|その}}まゝ信ずべし。主は罪を赦すが為めにこれを我等に{{r|與|あた}}へ給へり。〔[[マタイによる福音書(口語訳)#26:26|馬太廿六の廿六]]、馬可十四の廿二〕。かくの如く信ずる者は罪せられざるも信ぜざる者は{{r|最早|もはや}}罰せらる、我等はこれを信用す。故に罪人の如く己れを{{r|定罪|ていざい}}しつゝ{{r|就|つ}}くを自ら禁ずるなかれ、救世主に就く所の罪人は罪の赦しを賜はるを承認すべし。それ我等は聖書に於て信仰をもて救世主につき其の神なる声をきゝし者を見るなり、曰く『汝の多くの罪は汝に赦さる』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#9:2|馬太九の二]]、馬可二の五、ルカ七の四十七、四十八〕。故に汝は己を罪人と承認し亡びし者を救はんことを能くし給ふ者に就くべし。〔[[マタイによる福音書(口語訳)#18:11|馬太十八の十一]]、ルカ十九の十〕。 百六十八、 我れに多くの不潔なる思念の生ずるあらんに我れこれを誰にでも言ふを自ら{{r|耻|は}}づる時はいかに行為すべきか。――これ神につげて{{r|左|さ}}の如くいふべし、{{r|曰|いは}}く主宰よ{{r|我|わ}}れ{{r|識|し}}ると{{r|識|し}}らざるとにより{{r|汝|なんぢ}}の{{r|旨|むね}}に{{r|戻|もと}}る{{r|事|こと}}を思念したるを{{r|我|わ}}れに赦し給へ、けだし{{r|汝|なんぢ}}の{{r|矜恤|あはれみ}}は世々にあればなり、アミン。 百六十九、 我れ淫慾に苦む、我れ{{r|如何|いか}}に為すべきか。――出来るだけ{{r|自|みず}}から己を{{r|疲|つか}}らすべし、然れども又己の力を量るべし、さりながら{{r|此|かれ}}に自ら依頼するなく神の愛と{{r|庇|ひ}}{{r|蔭|いん}}とに依頼すべし、又失心に沈むなかれ。けだし失心は萬悪の始めなればなり。 百七十、 {{r|嗜|し}}{{r|甘|かん}}、{{r|貪財|たんざい}}、{{r|貪獲|たんかく}}及び其他の欲の{{r|戦|たたかひ}}は我を{{r|擾|みだ}}す、我れ如何に為すべきか。――嗜甘の欲の戦ふ時は力を{{r|尽|つく}}し神の為めに苦戦して身体に其の要求するだけを{{r|與|あた}}ふるなかるべし。貪財{{註|貪獲}}に関しても{{r|亦|また}}同様に行ふべし。{{r|戦|たたかひ}}の汝を{{r|擾|みだ}}すある間は{{r|襦袢|じゅばん}}又は土器に至る迄も{{r|餘|よ}}{{r|分|ぶん}}のものは一も断じて得るなかれ、且最小なる物に於て、苦戦すべし{{註|貪獲に向つて}}。さて神の助けにより{{r|此|この}}{{r|戦|たたかひ}}に勝つ時は汝に要用なるものを神に{{r|依|より}}て獲よ。他の諸欲につきても亦かくの如く{{註|実験的反対をもて}}行ふべし。 百七十一、 たやすく発怒する所の兄弟につげん、もし汝はすべての人の為めに自ら死し多少の謙遜を有せんことを自ら{{r|強|つと}}むるあらば平安を有するを{{r|得|う}}べく多くの災難を免れん。汝の心は神の前に謙るべし、さらば神の恩寵はすべてに於て我等を保護せん。 百七十二、 もし汝は{{註|病弱の為め}}{{r|唱|しょう}}{{r|詩|し}}と祈祷とを坐して行ふも感動と共に行ふ時はこれ汝の奉事の神意に適ふを妨げざるなり、けだし誰か立ちてこれを行ふも放心を以てするならば其の労は無に帰せん。 百七十三、 {{r|汝|なん}}ぢ{{r|或|あるい}}は立つか或は坐するか或は{{r|寝|い}}ぬるか汝の心を汝の{{r|唱|しょう}}{{r|詩|し}}の勤めに於て{{r|儆醒|けいせい}}せしむべし。日夜間断なく神に{{r|趨|はし}}り着きて祈祷に己を{{r|委|ゆだ}}ぬべし、然る時は霊魂を{{r|打贏|うちまか}}す所の敵は{{r|耻|はぢ}}を{{r|蒙|こうむ}}りて退かん。 百七十四、 我が神を希望するの徴候は如何なるか、又罪の赦さるゝの徴候は如何なるか。――神を希望するの徴候は{{r|肉躰|にくたい}}の為めに配慮するすべての念を己れより{{r|抛擲|ほうてき}}して此世に何物をか有せんことを断じて思はざるにあり、けだし然らずんば汝はこれに{{r|望|のぞみ}}を有して神に有するにあらざるなり。又罪を赦さるゝの徴候は罪を憎んで{{r|復|ふたた}}び行はざるにあり。されども人、罪事を思ふて其心にこれを楽み或はこれを実際に行ふある時は是れ即ち罪は其人にいまだ赦されずして{{r|猶|なほ}}罪人と認めらるべき徴候なり。 百七十五、 定理の書を読むべきか。――汝が此等の書を研究せんことは我は願はざらん、何となれば此等の書は智識を上に挙ぐればなり、{{r|寧|むし}}ろ智識を下に{{r|遜|へりくだ}}らしむる諸老人の{{r|言|ことば}}を学ぶべし。我が{{r|此|か}}くいふは定理の書を{{r|卑|いやし}}むが為めにあらず、たゞ汝に{{r|勧|かん}}{{r|諭|ゆ}}するのみ、けだし食物は種々あればなり。 百七十六、 聖書にいふ『君長たるもの汝に向ひて発怒するも汝の本所を離るゝなかれ』〔[[伝道の書(口語訳)#10:4|伝道書十の四]]〕。是れ何を意味するか。――是れ即ち思念をして{{傍点|汝に向つて発怒}}せしむるなかれ、これと談話するなかれ、{{r|乃|すなは}}ち神に依頼せよとなり、けだし彼れに{{註|思念に}}答ふるあらんと欲する時は彼の事を回想するに引入れられて彼は汝を祈祷の熱心より離れしむべければなり。 百七十七、 誰彼に論なく我を悪しくいふあるを聴く時は我れ如何に為すべきか。――直ちに祈祷に起ちて先づ某者の為に祈るべく{{r|次|つい}}で己の為に祈りていふべし、曰く主<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>や此の兄弟と汝が無用の{{r|僕|ぼく}}たる我を{{r|矜|あはれ}}み汝が諸聖人の祈祷をもて我等をあしきより{{r|庇|かば}}ひ{{r|給|たま}}へ、あみん。 百七十八、 誰か他を悪言し始むるあらんに気付く時は{{r|速|すみやか}}に談話をやめ或はこれを他の更に有益なる談話に{{r|易|か}}へんを要す、{{r|尚|なほ}}此事に於て{{r|遷延|せんえん}}するなかるべし、多言により{{註|再び}}悪言に陥らざらんが為なり。 百七十九、 悪言を楽んできくはこれ{{r|亦|また}}{{r|同|おなじ}}く悪言にして同様の定罪をうけん。 百八十、 無力の為めに生ずる天性自然の失心あり又魔鬼より来るの失心あり。もし汝はこれを弁別せんと欲せば左の如く弁別すべし、魔鬼に属するものは其の己れに休息を與ふるを要するの時に先だちて来らん、けだし人何にても為し始むるある時は事の三四分の一成らんとするに先だち彼は人をして事をすてゝ起たしむるなり。其時は彼に聴従すべからず乃ち祈祷を行ひ忍耐して事に勉励すべし、さらば敵は人の此事の為めに祈祷を行ふを見て彼と戦ふをやめん、けだし敵は祈祷に端緒を與ふるを欲せざればなり。 百八十一、 {{註|長老は}}兄弟につげて左の如く言ふべし『願くは誰も思念を隠さゞらんことを、けだしもし誰か思念を隠すあらば魔鬼は{{r|喜|よろこん}}で彼の{{r|霊|たましひ}}を{{r|滅|めつ}}すに尽力せん』と。然るに兄弟の{{r|中|うち}}誰か汝に自己の思念をつぐるある時は心中に呼んで左の如くいふべし『主よ兄弟の霊魂の{{r|救|すくひ}}の為めに爾の意に{{r|随|したがひ}}て我れを教へ給へ我れ彼れにいふことを得んが為めなり又汝の言をいひて我が言をいはざらんが為なり』。 百八十二、 己を{{註|長老は}}悉くの人より{{r|卑|いやし}}く思ふべし。されどもこれと同じく汝は悉くの人の{{r|治|ぢ}}{{r|者|しゃ}}にして汝がうくる所の位の為めに{{r|答責|とうせき}}を與へざるべからざる者と思ふべし』。 百八十三、 もし我れ誰なりとも何事をか為すを見て其を他の人に話説せんに{{r|余|わ}}れ彼を議するにあらず我等{{r|互|たがい}}に談話するのみといふならば此の時我の{{r|思|おもひ}}に誹謗あるなきか。――人は此をいひつゝ此時に欲の動きを感ずるあらばこれ{{r|最早|もはや}}誹謗なり。されども彼れもし欲より免るゝあらばこれ悪言にあらずして悪を成長せしめざるが為めに言ふなり。 百八十四、 誰か自由にして己れに罪と悪とを有するか又誰か自由ならずして有するか。――自由にして己れに罪と悪とを有するとは己の自由を悪に{{r|委|ゆだ}}ねこれをもて{{r|楽|たのし}}みこれと{{r|親|したし}}む者是なり。かくの如き者は「サタナ」と親睦し{{r|思|おもひ}}に於てこれと{{r|戦|たたかひ}}を{{r|作|な}}さゞるなり。されども自由ならずして己れに悪を有する者とは使徒の{{r|言|ことば}}に依るに〔[[ローマ人への手紙(口語訳)#7:23|ローマ七の廿三]]〕其の肢体に於て抵敵する反対の力あるを覚ゆるあり、且或る黒暗の力の己れを覆ふあれどもたゞ思念中にあるのみにして思念がこれと合同せずこれをもて楽まずこれに{{r|従|したが}}はず{{r|却|かへ}}りて反論、抵抗、逆言、抵敵して自から己を怒る所の者是れなり。 百八十五、 {{r|体|たい}}は{{r|一|いつ}}なれども{{r|肢|えだ}}は多し、されども一肢を欠くあらば体は完全の体にあらざるが如く多くの徳行をもて{{r|其肢|そのえだ}}とする内部の人の事も亦同く然るを知るべし。もし{{r|其中|そのうち}}一つを不足するあれば人は{{r|最早|もはや}}完全の人にあらざるなり。されば己の本職を善く知り又其の才智の{{r|敏捷|びんしょう}}なるに依りて他の諸の職業をも学ぶ所の職工は其の諸の職業の師とは名づけられずしてたゞ其の本職の師と名づけらるゝが如く{{r|此処|ここ}}に於てもかくの如くなるべしすべての徳行を有する所の人はそれに依りて認識せられそれによりて名称をうけて聖神の恩寵はそれによりて{{r|大|おほい}}に其人を照らすなり。 百八十六、 聖物をいやしめ或は聖なる信仰を{{r|非|そし}}る者あるを見る時は熱心の故に彼に対して心の{{r|擾|みだ}}るゝあり。是れ{{r|宜|よろし}}きや否や。――匡正{{註|悪の}}は悪なる者により成らずして善なるものによりて成らんことは汝の既に聞く所なり。故にかく挙動する者を神を畏るゝの畏れをもて{{r|教誨|きょうかい}}し温柔と寛忍とをもていふべし。されども自から心の{{r|擾|みだ}}るゝを見るあらば何もいふべからず。 百八十七、 我れ{{r|如何|いかん}}すべきか我は{{r|易|たや}}すく欲に{{r|誘|いざな}}はる。――欲と同盟を為すなかれ『汝の目を{{r|反|そら}}して{{r|虚|むなし}}きを見るなかれ』〔[[第十七「カフィズマ」#118:37|聖詠百十八の三十七]]〕汝の手を{{r|貪|たん}}{{r|利|り}}よりとゞめよ、さらば神は汝を欲より救ひ給はん。礼譲をもて己を行ふべく食と飲とを飽くまで味ふなかれ、さらば欲は汝に{{r|鎮|しづ}}まりて汝は安きを得ん。 【以下未入力】 {{DEFAULTSORT:きとうせいせいしゆう わるそのふいいおよひいおあんのきようくん4}} [[Category:祈祷惺々集|94]] ogloyvk01v72rgh78vk2u9idsj0dq8k 188766 188765 2022-08-18T04:14:11Z 村田ラジオ 14210 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|祈祷惺々集|hide=1}} {{header | title = 祈祷惺々集 | section = 聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(5) | year = 1896 | 年 = 明治二十九 | override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|斐沃芳〔フェオファン)]] (19世紀) | override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} | noauthor = | previous = [[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4)]] | next = | notes = *発行所:正教会編輯局 }} 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百六十四、 他人と共にするに{{r|愧耻|きち}}の為めに心乱れ我が談の愚にして言語に交ゆるに意味なき{{r|笑|わらい}}を以てするの時あり、いかにすべきか。――それ神を{{r|畏|おそ}}るゝの{{r|畏|おそ}}れはすべての心の{{r|擾|みだ}}れとすべての不順序と混雑とを避くべし。故に我等は談話に先だちまづ己を神を{{r|畏|おそ}}るるの{{r|畏|おそ}}れに固めて我等{{r|何故|なにゆえ}}{{r|擾乱|じょうらん}}するか{{r|且|かつ}}{{r|嗤|し}}{{r|笑|しょう}}するか{{r|子|し}}{{r|細|さい}}に己の心に於て{{r|穿鑿|せんさく}}せん、けだし神を畏るるの畏れに{{r|嗤|し}}{{r|笑|しょう}}あるなければなり。聖書に愚者の事を{{r|謂|い}}ふ『彼等は{{r|笑|わらい}}に於て{{r|其|その}}{{r|声|こえ}}を{{r|挙|あ}}ぐ』〔[[ベン・シラの智慧 第二十一章|シラフ二十一の二十三]]〕と。{{r|且|かつ}}愚者の{{r|言|ことば}}は擾乱して恩寵を奪はる。されども義人のことはいふあり彼の{{r|笑|わらい}}は『{{r|僅|わずか}}に微笑に{{r|止|とど}}まる』と。故にもし我等は己に神を{{r|念|おも}}ふの記憶を{{r|起|おこ}}し{{r|又|また}}我が{{r|兄弟|けいてい}}と談話するに謙遜と沈着なる思念とを以てすべしとの念を起し{{r|且|かつ}}{{r|此|これ}}を回想して神の畏るべき審判を常に目前に有するある時はかくの如き心掛けはもろ〳〵の悪しき念慮を我が心より{{r|追|お}}はん、けだし沈黙、温柔及び謙遜のある処に神は{{r|住|やど}}り給へばなり。神の聖なる名を呼ぶことの我等に必要なるをまづ第一に想起せん、けだし神のある処にすべて善なる者のあるは{{r|魔鬼|まき}}のある所にすべて悪なる者のあると同じく明々白々なればなり。 百六十五、 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神の機密の事は{{r|或|あるい}}は探問するを要するか。又罪人は機密に{{r|就|つ}}き{{r|不|ふ}}{{r|當|とう}}なる者として定罪せらるゝか。――<u>ハリストス</u>の体と血とをうけんが為めに聖堂に{{r|来|きた}}りてこれをうくるあらば此の{{註|機密の}}真理に{{r|疑|うたがひ}}なく{{r|信|しん}}を置くやうに己れに注意すべし。されども此の機密の{{r|如何|いかん}}を好んで探問するなかれ『此れ我が体なり此れ我が血なり』といはれし如く{{r|其|その}}まゝ信ずべし。主は罪を赦すが為めにこれを我等に{{r|與|あた}}へ給へり。〔[[マタイによる福音書(口語訳)#26:26|馬太廿六の廿六]]、馬可十四の廿二〕。かくの如く信ずる者は罪せられざるも信ぜざる者は{{r|最早|もはや}}罰せらる、我等はこれを信用す。故に罪人の如く己れを{{r|定罪|ていざい}}しつゝ{{r|就|つ}}くを自ら禁ずるなかれ、救世主に就く所の罪人は罪の赦しを賜はるを承認すべし。それ我等は聖書に於て信仰をもて救世主につき其の神なる声をきゝし者を見るなり、曰く『汝の多くの罪は汝に赦さる』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#9:2|馬太九の二]]、馬可二の五、ルカ七の四十七、四十八〕。故に汝は己を罪人と承認し亡びし者を救はんことを能くし給ふ者に就くべし。〔[[マタイによる福音書(口語訳)#18:11|馬太十八の十一]]、ルカ十九の十〕。 百六十八、 我れに多くの不潔なる思念の生ずるあらんに我れこれを誰にでも言ふを自ら{{r|耻|は}}づる時はいかに行為すべきか。――これ神につげて{{r|左|さ}}の如くいふべし、{{r|曰|いは}}く主宰よ{{r|我|わ}}れ{{r|識|し}}ると{{r|識|し}}らざるとにより{{r|汝|なんぢ}}の{{r|旨|むね}}に{{r|戻|もと}}る{{r|事|こと}}を思念したるを{{r|我|わ}}れに赦し給へ、けだし{{r|汝|なんぢ}}の{{r|矜恤|あはれみ}}は世々にあればなり、アミン。 百六十九、 我れ淫慾に苦む、我れ{{r|如何|いか}}に為すべきか。――出来るだけ{{r|自|みず}}から己を{{r|疲|つか}}らすべし、然れども又己の力を量るべし、さりながら{{r|此|かれ}}に自ら依頼するなく神の愛と{{r|庇|ひ}}{{r|蔭|いん}}とに依頼すべし、又失心に沈むなかれ。けだし失心は萬悪の始めなればなり。 百七十、 {{r|嗜|し}}{{r|甘|かん}}、{{r|貪財|たんざい}}、{{r|貪獲|たんかく}}及び其他の欲の{{r|戦|たたかひ}}は我を{{r|擾|みだ}}す、我れ如何に為すべきか。――嗜甘の欲の戦ふ時は力を{{r|尽|つく}}し神の為めに苦戦して身体に其の要求するだけを{{r|與|あた}}ふるなかるべし。貪財{{註|貪獲}}に関しても{{r|亦|また}}同様に行ふべし。{{r|戦|たたかひ}}の汝を{{r|擾|みだ}}すある間は{{r|襦袢|じゅばん}}又は土器に至る迄も{{r|餘|よ}}{{r|分|ぶん}}のものは一も断じて得るなかれ、且最小なる物に於て、苦戦すべし{{註|貪獲に向つて}}。さて神の助けにより{{r|此|この}}{{r|戦|たたかひ}}に勝つ時は汝に要用なるものを神に{{r|依|より}}て獲よ。他の諸欲につきても亦かくの如く{{註|実験的反対をもて}}行ふべし。 百七十一、 たやすく発怒する所の兄弟につげん、もし汝はすべての人の為めに自ら死し多少の謙遜を有せんことを自ら{{r|強|つと}}むるあらば平安を有するを{{r|得|う}}べく多くの災難を免れん。汝の心は神の前に謙るべし、さらば神の恩寵はすべてに於て我等を保護せん。 百七十二、 もし汝は{{註|病弱の為め}}{{r|唱|しょう}}{{r|詩|し}}と祈祷とを坐して行ふも感動と共に行ふ時はこれ汝の奉事の神意に適ふを妨げざるなり、けだし誰か立ちてこれを行ふも放心を以てするならば其の労は無に帰せん。 百七十三、 {{r|汝|なん}}ぢ{{r|或|あるい}}は立つか或は坐するか或は{{r|寝|い}}ぬるか汝の心を汝の{{r|唱|しょう}}{{r|詩|し}}の勤めに於て{{r|儆醒|けいせい}}せしむべし。日夜間断なく神に{{r|趨|はし}}り着きて祈祷に己を{{r|委|ゆだ}}ぬべし、然る時は霊魂を{{r|打贏|うちまか}}す所の敵は{{r|耻|はぢ}}を{{r|蒙|こうむ}}りて退かん。 百七十四、 我が神を希望するの徴候は如何なるか、又罪の赦さるゝの徴候は如何なるか。――神を希望するの徴候は{{r|肉躰|にくたい}}の為めに配慮するすべての念を己れより{{r|抛擲|ほうてき}}して此世に何物をか有せんことを断じて思はざるにあり、けだし然らずんば汝はこれに{{r|望|のぞみ}}を有して神に有するにあらざるなり。又罪を赦さるゝの徴候は罪を憎んで{{r|復|ふたた}}び行はざるにあり。されども人、罪事を思ふて其心にこれを楽み或はこれを実際に行ふある時は是れ即ち罪は其人にいまだ赦されずして{{r|猶|なほ}}罪人と認めらるべき徴候なり。 百七十五、 定理の書を読むべきか。――汝が此等の書を研究せんことは我は願はざらん、何となれば此等の書は智識を上に挙ぐればなり、{{r|寧|むし}}ろ智識を下に{{r|遜|へりくだ}}らしむる諸老人の{{r|言|ことば}}を学ぶべし。我が{{r|此|か}}くいふは定理の書を{{r|卑|いやし}}むが為めにあらず、たゞ汝に{{r|勧|かん}}{{r|諭|ゆ}}するのみ、けだし食物は種々あればなり。 百七十六、 聖書にいふ『君長たるもの汝に向ひて発怒するも汝の本所を離るゝなかれ』〔[[伝道の書(口語訳)#10:4|伝道書十の四]]〕。是れ何を意味するか。――是れ即ち思念をして{{傍点|汝に向つて発怒}}せしむるなかれ、これと談話するなかれ、{{r|乃|すなは}}ち神に依頼せよとなり、けだし彼れに{{註|思念に}}答ふるあらんと欲する時は彼の事を回想するに引入れられて彼は汝を祈祷の熱心より離れしむべければなり。 百七十七、 誰彼に論なく我を悪しくいふあるを聴く時は我れ如何に為すべきか。――直ちに祈祷に起ちて先づ某者の為に祈るべく{{r|次|つい}}で己の為に祈りていふべし、曰く主<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>や此の兄弟と汝が無用の{{r|僕|ぼく}}たる我を{{r|矜|あはれ}}み汝が諸聖人の祈祷をもて我等をあしきより{{r|庇|かば}}ひ{{r|給|たま}}へ、あみん。 百七十八、 誰か他を悪言し始むるあらんに気付く時は{{r|速|すみやか}}に談話をやめ或はこれを他の更に有益なる談話に{{r|易|か}}へんを要す、{{r|尚|なほ}}此事に於て{{r|遷延|せんえん}}するなかるべし、多言により{{註|再び}}悪言に陥らざらんが為なり。 百七十九、 悪言を楽んできくはこれ{{r|亦|また}}{{r|同|おなじ}}く悪言にして同様の定罪をうけん。 百八十、 無力の為めに生ずる天性自然の失心あり又魔鬼より来るの失心あり。もし汝はこれを弁別せんと欲せば左の如く弁別すべし、魔鬼に属するものは其の己れに休息を與ふるを要するの時に先だちて来らん、けだし人何にても為し始むるある時は事の三四分の一成らんとするに先だち彼は人をして事をすてゝ起たしむるなり。其時は彼に聴従すべからず乃ち祈祷を行ひ忍耐して事に勉励すべし、さらば敵は人の此事の為めに祈祷を行ふを見て彼と戦ふをやめん、けだし敵は祈祷に端緒を與ふるを欲せざればなり。 百八十一、 {{註|長老は}}兄弟につげて左の如く言ふべし『願くは誰も思念を隠さゞらんことを、けだしもし誰か思念を隠すあらば魔鬼は{{r|喜|よろこん}}で彼の{{r|霊|たましひ}}を{{r|滅|めつ}}すに尽力せん』と。然るに兄弟の{{r|中|うち}}誰か汝に自己の思念をつぐるある時は心中に呼んで左の如くいふべし『主よ兄弟の霊魂の{{r|救|すくひ}}の為めに爾の意に{{r|随|したがひ}}て我れを教へ給へ我れ彼れにいふことを得んが為めなり又汝の言をいひて我が言をいはざらんが為なり』。 百八十二、 己を{{註|長老は}}悉くの人より{{r|卑|いやし}}く思ふべし。されどもこれと同じく汝は悉くの人の{{r|治|ぢ}}{{r|者|しゃ}}にして汝がうくる所の位の為めに{{r|答責|とうせき}}を與へざるべからざる者と思ふべし』。 百八十三、 もし我れ誰なりとも何事をか為すを見て其を他の人に話説せんに{{r|余|わ}}れ彼を議するにあらず我等{{r|互|たがい}}に談話するのみといふならば此の時我の{{r|思|おもひ}}に誹謗あるなきか。――人は此をいひつゝ此時に欲の動きを感ずるあらばこれ{{r|最早|もはや}}誹謗なり。されども彼れもし欲より免るゝあらばこれ悪言にあらずして悪を成長せしめざるが為めに言ふなり。 百八十四、 誰か自由にして己れに罪と悪とを有するか又誰か自由ならずして有するか。――自由にして己れに罪と悪とを有するとは己の自由を悪に{{r|委|ゆだ}}ねこれをもて{{r|楽|たのし}}みこれと{{r|親|したし}}む者是なり。かくの如き者は「サタナ」と親睦し{{r|思|おもひ}}に於てこれと{{r|戦|たたかひ}}を{{r|作|な}}さゞるなり。されども自由ならずして己れに悪を有する者とは使徒の{{r|言|ことば}}に依るに〔[[ローマ人への手紙(口語訳)#7:23|ローマ七の廿三]]〕其の肢体に於て抵敵する反対の力あるを覚ゆるあり、且或る黒暗の力の己れを覆ふあれどもたゞ思念中にあるのみにして思念がこれと合同せずこれをもて楽まずこれに{{r|従|したが}}はず{{r|却|かへ}}りて反論、抵抗、逆言、抵敵して自から己を怒る所の者是れなり。 百八十五、 {{r|体|たい}}は{{r|一|いつ}}なれども{{r|肢|えだ}}は多し、されども一肢を欠くあらば体は完全の体にあらざるが如く多くの徳行をもて{{r|其肢|そのえだ}}とする内部の人の事も亦同く然るを知るべし。もし{{r|其中|そのうち}}一つを不足するあれば人は{{r|最早|もはや}}完全の人にあらざるなり。されば己の本職を善く知り又其の才智の{{r|敏捷|びんしょう}}なるに依りて他の諸の職業をも学ぶ所の職工は其の諸の職業の師とは名づけられずしてたゞ其の本職の師と名づけらるゝが如く{{r|此処|ここ}}に於てもかくの如くなるべしすべての徳行を有する所の人はそれに依りて認識せられそれによりて名称をうけて聖神の恩寵はそれによりて{{r|大|おほい}}に其人を照らすなり。 百八十六、 聖物をいやしめ或は聖なる信仰を{{r|非|そし}}る者あるを見る時は熱心の故に彼に対して心の{{r|擾|みだ}}るゝあり。是れ{{r|宜|よろし}}きや否や。――匡正{{註|悪の}}は悪なる者により成らずして善なるものによりて成らんことは汝の既に聞く所なり。故にかく挙動する者を神を畏るゝの畏れをもて{{r|教誨|きょうかい}}し温柔と寛忍とをもていふべし。されども自から心の{{r|擾|みだ}}るゝを見るあらば何もいふべからず。 百八十七、 我れ{{r|如何|いかん}}すべきか我は{{r|易|たや}}すく欲に{{r|誘|いざな}}はる。――欲と同盟を為すなかれ『汝の目を{{r|反|そら}}して{{r|虚|むなし}}きを見るなかれ』〔[[第十七「カフィズマ」#118:37|聖詠百十八の三十七]]〕汝の手を{{r|貪|たん}}{{r|利|り}}よりとゞめよ、さらば神は汝を欲より救ひ給はん。礼譲をもて己を行ふべく食と飲とを飽くまで味ふなかれ、さらば欲は汝に{{r|鎮|しづ}}まりて汝は安きを得ん。 【188 から 201 まで未入力】 {{DEFAULTSORT:きとうせいせいしゆう わるそのふいいおよひいおあんのきようくん5}} [[Category:祈祷惺々集|95]] ra6iyap6ck50wdciv9clfs0sif1cvon 188769 188766 2022-08-18T07:23:34Z 村田ラジオ 14210 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|祈祷惺々集|hide=1}} {{header | title = 祈祷惺々集 | section = 聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(5) | year = 1896 | 年 = 明治二十九 | override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|フェオファン]] (19世紀) | override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} | noauthor = | previous = [[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4)]] | next = | notes = *発行所:正教会編輯局 }} <b>聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓</b> ::<b>祈祷と清醒の事</b> 百六十二、 {{r|幾何|いくばく}}の能力を有するありとも自ら{{r|何人|なにびと}}よりも{{r|卑|ひく}}く{{r|視|み}}んことを{{r|強|つと}}めて日夜己を{{r|卑|ひく}}うすべし。{{r|是|こ}}れ真実の{{r|路|みち}}なり、此の{{r|外|ほか}}の{{r|路|みち}}あるなし。 百六十三、 もし我れ誰彼となく不適当に動作するを見る時は我れ其の不適当を批判するを得るか。さらば此れより流るゝ近者を{{r|議|ぎ}}するの議を{{r|如何|いかん}}して{{r|逃|のが}}るべきか。――実に不適当なる行為は{{r|我|われ}}{{r|儕|ら}}これを不適当と認めざるを得ず、けだし然らずんばこれより生ずる所の害を我等いかにして避けんや。されどもかゝる{{r|行|おこなひ}}を為す所の其人を{{r|議|ぎ}}すべからず、聖書に『人を議するなかれ汝議せられざるを致せ』〔[[ルカによる福音書(口語訳)#6:37|ルカ六の三十七]]〕といふに依るも又我等は自ら己を悉くの人より{{r|尚|なほ}}罪なる者と認むべきに依るも{{r|且|かつ}}兄弟の罪を犯せるを我等は己の犯せるものと思ひて{{r|唯|ただ}}其の彼を誘惑したる{{r|魔鬼|まき}}を憎むべきに依るもかくの如し。誰か他を{{r|坑|あな}}に{{r|擠|お}}したらんには我等は{{r|其坑|そのあな}}に陥りし者を責めずして彼を{{r|擠|お}}したる者を責む、{{r|此処|ここ}}に於ても実にかくの如し。人の事を為すや其の見る者の為には適当ならざるが如くに見ゆるも{{r|其|その}}{{r|為|な}}す者の善意によりて行ふの場合あり。さればこれと同じく我等も{{r|亦|また}}其の罪を犯したる兄弟が既に己の謙遜と信認とに由り悔改をもて神の喜ぶ所となると否とを知らざることあり。<u>ファリセイ</u>人は己が{{r|自誉|じよ}}の為めに定罪せられて{{r|退|しりぞ}}けり。此を知りて我等は{{r|税|ぜい}}{{r|吏|り}}の謙遜に{{r|法|のつと}}り自ら己を罪せん、義とせられんが為なり、又<u>ファリセイ</u>の{{r|自誉|じよ}}を避けん、定罪せられし者とならざらんが為なり。 百六十四、 他人と共にするに{{r|愧耻|きち}}の為めに心乱れ我が談の愚にして言語に交ゆるに意味なき{{r|笑|わらい}}を以てするの時あり、いかにすべきか。――それ神を{{r|畏|おそ}}るゝの{{r|畏|おそ}}れはすべての心の{{r|擾|みだ}}れとすべての不順序と混雑とを避くべし。故に我等は談話に先だちまづ己を神を{{r|畏|おそ}}るるの{{r|畏|おそ}}れに固めて我等{{r|何故|なにゆえ}}{{r|擾乱|じょうらん}}するか{{r|且|かつ}}{{r|嗤|し}}{{r|笑|しょう}}するか{{r|子|し}}{{r|細|さい}}に己の心に於て{{r|穿鑿|せんさく}}せん、けだし神を畏るるの畏れに{{r|嗤|し}}{{r|笑|しょう}}あるなければなり。聖書に愚者の事を{{r|謂|い}}ふ『彼等は{{r|笑|わらい}}に於て{{r|其|その}}{{r|声|こえ}}を{{r|挙|あ}}ぐ』〔[[ベン・シラの智慧 第二十一章|シラフ二十一の二十三]]〕と。{{r|且|かつ}}愚者の{{r|言|ことば}}は擾乱して恩寵を奪はる。されども義人のことはいふあり彼の{{r|笑|わらい}}は『{{r|僅|わずか}}に微笑に{{r|止|とど}}まる』と。故にもし我等は己に神を{{r|念|おも}}ふの記憶を{{r|起|おこ}}し{{r|又|また}}我が{{r|兄弟|けいてい}}と談話するに謙遜と沈着なる思念とを以てすべしとの念を起し{{r|且|かつ}}{{r|此|これ}}を回想して神の畏るべき審判を常に目前に有するある時はかくの如き心掛けはもろ〳〵の悪しき念慮を我が心より{{r|追|お}}はん、けだし沈黙、温柔及び謙遜のある処に神は{{r|住|やど}}り給へばなり。神の聖なる名を呼ぶことの我等に必要なるをまづ第一に想起せん、けだし神のある処にすべて善なる者のあるは{{r|魔鬼|まき}}のある所にすべて悪なる者のあると同じく明々白々なればなり。 百六十五、 自由の交際に二種あり、{{r|一|いつ}}は{{r|無耻|むち}}より生ずるものにして萬悪の根本なり、{{r|又|また}}{{r|一|いつ}}は快楽より生ずるものなり、{{r|然|しか}}れども此の後者もこれを数々する者の為めに全く有益なるにはあらず。さりながらたゞ其の堅固にして有力なる者は{{r|両|ふた}}つながらこれを避くることを{{r|得|う}}れども我等は己の{{r|荏弱|じんじゃく}}の為めに{{r|此|これ}}を避くる能はざるにより其の兄弟に{{r|誘|いざなひ}}を致すの縁由を{{r|與|あた}}へざらんやうに注意して快楽より生ずる所の自由の交際を時あり少なくも許容することあり。されども戯笑に{{r|至|いたり}}てはこれに自由を許すべからず、其の戯笑を礼譲をもて{{r|過|すご}}さんが為めに思念を制すべし。けだし自から戯笑に自由を與ふる所の者は此れよりして淫蕩にも陥るを知るべし。 百六十六、 {{r|諂諛|へつらい}}を欲するによりて人は高慢するに至る。されど高慢が乗ずる時は{{r|驕傲|きょうごう}}を生ず。 百六十七、 神の機密の事は{{r|或|あるい}}は探問するを要するか。又罪人は機密に{{r|就|つ}}き{{r|不|ふ}}{{r|當|とう}}なる者として定罪せらるゝか。――<u>ハリストス</u>の体と血とをうけんが為めに聖堂に{{r|来|きた}}りてこれをうくるあらば此の{{註|機密の}}真理に{{r|疑|うたがひ}}なく{{r|信|しん}}を置くやうに己れに注意すべし。されども此の機密の{{r|如何|いかん}}を好んで探問するなかれ『此れ我が体なり此れ我が血なり』といはれし如く{{r|其|その}}まゝ信ずべし。主は罪を赦すが為めにこれを我等に{{r|與|あた}}へ給へり。〔[[マタイによる福音書(口語訳)#26:26|馬太廿六の廿六]]、馬可十四の廿二〕。かくの如く信ずる者は罪せられざるも信ぜざる者は{{r|最早|もはや}}罰せらる、我等はこれを信用す。故に罪人の如く己れを{{r|定罪|ていざい}}しつゝ{{r|就|つ}}くを自ら禁ずるなかれ、救世主に就く所の罪人は罪の赦しを賜はるを承認すべし。それ我等は聖書に於て信仰をもて救世主につき其の神なる声をきゝし者を見るなり、曰く『汝の多くの罪は汝に赦さる』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#9:2|馬太九の二]]、馬可二の五、ルカ七の四十七、四十八〕。故に汝は己を罪人と承認し亡びし者を救はんことを能くし給ふ者に就くべし。〔[[マタイによる福音書(口語訳)#18:11|馬太十八の十一]]、ルカ十九の十〕。 百六十八、 我れに多くの不潔なる思念の生ずるあらんに我れこれを誰にでも言ふを自ら{{r|耻|は}}づる時はいかに行為すべきか。――これ神につげて{{r|左|さ}}の如くいふべし、{{r|曰|いは}}く主宰よ{{r|我|わ}}れ{{r|識|し}}ると{{r|識|し}}らざるとにより{{r|汝|なんぢ}}の{{r|旨|むね}}に{{r|戻|もと}}る{{r|事|こと}}を思念したるを{{r|我|わ}}れに赦し給へ、けだし{{r|汝|なんぢ}}の{{r|矜恤|あはれみ}}は世々にあればなり、アミン。 百六十九、 我れ淫慾に苦む、我れ{{r|如何|いか}}に為すべきか。――出来るだけ{{r|自|みず}}から己を{{r|疲|つか}}らすべし、然れども又己の力を量るべし、さりながら{{r|此|かれ}}に自ら依頼するなく神の愛と{{r|庇|ひ}}{{r|蔭|いん}}とに依頼すべし、又失心に沈むなかれ。けだし失心は萬悪の始めなればなり。 百七十、 {{r|嗜|し}}{{r|甘|かん}}、{{r|貪財|たんざい}}、{{r|貪獲|たんかく}}及び其他の欲の{{r|戦|たたかひ}}は我を{{r|擾|みだ}}す、我れ如何に為すべきか。――嗜甘の欲の戦ふ時は力を{{r|尽|つく}}し神の為めに苦戦して身体に其の要求するだけを{{r|與|あた}}ふるなかるべし。貪財{{註|貪獲}}に関しても{{r|亦|また}}同様に行ふべし。{{r|戦|たたかひ}}の汝を{{r|擾|みだ}}すある間は{{r|襦袢|じゅばん}}又は土器に至る迄も{{r|餘|よ}}{{r|分|ぶん}}のものは一も断じて得るなかれ、且最小なる物に於て、苦戦すべし{{註|貪獲に向つて}}。さて神の助けにより{{r|此|この}}{{r|戦|たたかひ}}に勝つ時は汝に要用なるものを神に{{r|依|より}}て獲よ。他の諸欲につきても亦かくの如く{{註|実験的反対をもて}}行ふべし。 百七十一、 たやすく発怒する所の兄弟につげん、もし汝はすべての人の為めに自ら死し多少の謙遜を有せんことを自ら{{r|強|つと}}むるあらば平安を有するを{{r|得|う}}べく多くの災難を免れん。汝の心は神の前に謙るべし、さらば神の恩寵はすべてに於て我等を保護せん。 百七十二、 もし汝は{{註|病弱の為め}}{{r|唱|しょう}}{{r|詩|し}}と祈祷とを坐して行ふも感動と共に行ふ時はこれ汝の奉事の神意に適ふを妨げざるなり、けだし誰か立ちてこれを行ふも放心を以てするならば其の労は無に帰せん。 百七十三、 {{r|汝|なん}}ぢ{{r|或|あるい}}は立つか或は坐するか或は{{r|寝|い}}ぬるか汝の心を汝の{{r|唱|しょう}}{{r|詩|し}}の勤めに於て{{r|儆醒|けいせい}}せしむべし。日夜間断なく神に{{r|趨|はし}}り着きて祈祷に己を{{r|委|ゆだ}}ぬべし、然る時は霊魂を{{r|打贏|うちまか}}す所の敵は{{r|耻|はぢ}}を{{r|蒙|こうむ}}りて退かん。 百七十四、 我が神を希望するの徴候は如何なるか、又罪の赦さるゝの徴候は如何なるか。――神を希望するの徴候は{{r|肉躰|にくたい}}の為めに配慮するすべての念を己れより{{r|抛擲|ほうてき}}して此世に何物をか有せんことを断じて思はざるにあり、けだし然らずんば汝はこれに{{r|望|のぞみ}}を有して神に有するにあらざるなり。又罪を赦さるゝの徴候は罪を憎んで{{r|復|ふたた}}び行はざるにあり。されども人、罪事を思ふて其心にこれを楽み或はこれを実際に行ふある時は是れ即ち罪は其人にいまだ赦されずして{{r|猶|なほ}}罪人と認めらるべき徴候なり。 百七十五、 定理の書を読むべきか。――汝が此等の書を研究せんことは我は願はざらん、何となれば此等の書は智識を上に挙ぐればなり、{{r|寧|むし}}ろ智識を下に{{r|遜|へりくだ}}らしむる諸老人の{{r|言|ことば}}を学ぶべし。我が{{r|此|か}}くいふは定理の書を{{r|卑|いやし}}むが為めにあらず、たゞ汝に{{r|勧|かん}}{{r|諭|ゆ}}するのみ、けだし食物は種々あればなり。 百七十六、 聖書にいふ『君長たるもの汝に向ひて発怒するも汝の本所を離るゝなかれ』〔[[伝道の書(口語訳)#10:4|伝道書十の四]]〕。是れ何を意味するか。――是れ即ち思念をして{{傍点|汝に向つて発怒}}せしむるなかれ、これと談話するなかれ、{{r|乃|すなは}}ち神に依頼せよとなり、けだし彼れに{{註|思念に}}答ふるあらんと欲する時は彼の事を回想するに引入れられて彼は汝を祈祷の熱心より離れしむべければなり。 百七十七、 誰彼に論なく我を悪しくいふあるを聴く時は我れ如何に為すべきか。――直ちに祈祷に起ちて先づ某者の為に祈るべく{{r|次|つい}}で己の為に祈りていふべし、曰く主<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>や此の兄弟と汝が無用の{{r|僕|ぼく}}たる我を{{r|矜|あはれ}}み汝が諸聖人の祈祷をもて我等をあしきより{{r|庇|かば}}ひ{{r|給|たま}}へ、あみん。 百七十八、 誰か他を悪言し始むるあらんに気付く時は{{r|速|すみやか}}に談話をやめ或はこれを他の更に有益なる談話に{{r|易|か}}へんを要す、{{r|尚|なほ}}此事に於て{{r|遷延|せんえん}}するなかるべし、多言により{{註|再び}}悪言に陥らざらんが為なり。 百七十九、 悪言を楽んできくはこれ{{r|亦|また}}{{r|同|おなじ}}く悪言にして同様の定罪をうけん。 百八十、 無力の為めに生ずる天性自然の失心あり又魔鬼より来るの失心あり。もし汝はこれを弁別せんと欲せば左の如く弁別すべし、魔鬼に属するものは其の己れに休息を與ふるを要するの時に先だちて来らん、けだし人何にても為し始むるある時は事の三四分の一成らんとするに先だち彼は人をして事をすてゝ起たしむるなり。其時は彼に聴従すべからず乃ち祈祷を行ひ忍耐して事に勉励すべし、さらば敵は人の此事の為めに祈祷を行ふを見て彼と戦ふをやめん、けだし敵は祈祷に端緒を與ふるを欲せざればなり。 百八十一、 {{註|長老は}}兄弟につげて左の如く言ふべし『願くは誰も思念を隠さゞらんことを、けだしもし誰か思念を隠すあらば魔鬼は{{r|喜|よろこん}}で彼の{{r|霊|たましひ}}を{{r|滅|めつ}}すに尽力せん』と。然るに兄弟の{{r|中|うち}}誰か汝に自己の思念をつぐるある時は心中に呼んで左の如くいふべし『主よ兄弟の霊魂の{{r|救|すくひ}}の為めに爾の意に{{r|随|したがひ}}て我れを教へ給へ我れ彼れにいふことを得んが為めなり又汝の言をいひて我が言をいはざらんが為なり』。 百八十二、 己を{{註|長老は}}悉くの人より{{r|卑|いやし}}く思ふべし。されどもこれと同じく汝は悉くの人の{{r|治|ぢ}}{{r|者|しゃ}}にして汝がうくる所の位の為めに{{r|答責|とうせき}}を與へざるべからざる者と思ふべし』。 百八十三、 もし我れ誰なりとも何事をか為すを見て其を他の人に話説せんに{{r|余|わ}}れ彼を議するにあらず我等{{r|互|たがい}}に談話するのみといふならば此の時我の{{r|思|おもひ}}に誹謗あるなきか。――人は此をいひつゝ此時に欲の動きを感ずるあらばこれ{{r|最早|もはや}}誹謗なり。されども彼れもし欲より免るゝあらばこれ悪言にあらずして悪を成長せしめざるが為めに言ふなり。 百八十四、 誰か自由にして己れに罪と悪とを有するか又誰か自由ならずして有するか。――自由にして己れに罪と悪とを有するとは己の自由を悪に{{r|委|ゆだ}}ねこれをもて{{r|楽|たのし}}みこれと{{r|親|したし}}む者是なり。かくの如き者は「サタナ」と親睦し{{r|思|おもひ}}に於てこれと{{r|戦|たたかひ}}を{{r|作|な}}さゞるなり。されども自由ならずして己れに悪を有する者とは使徒の{{r|言|ことば}}に依るに〔[[ローマ人への手紙(口語訳)#7:23|ローマ七の廿三]]〕其の肢体に於て抵敵する反対の力あるを覚ゆるあり、且或る黒暗の力の己れを覆ふあれどもたゞ思念中にあるのみにして思念がこれと合同せずこれをもて楽まずこれに{{r|従|したが}}はず{{r|却|かへ}}りて反論、抵抗、逆言、抵敵して自から己を怒る所の者是れなり。 百八十五、 {{r|体|たい}}は{{r|一|いつ}}なれども{{r|肢|えだ}}は多し、されども一肢を欠くあらば体は完全の体にあらざるが如く多くの徳行をもて{{r|其肢|そのえだ}}とする内部の人の事も亦同く然るを知るべし。もし{{r|其中|そのうち}}一つを不足するあれば人は{{r|最早|もはや}}完全の人にあらざるなり。されば己の本職を善く知り又其の才智の{{r|敏捷|びんしょう}}なるに依りて他の諸の職業をも学ぶ所の職工は其の諸の職業の師とは名づけられずしてたゞ其の本職の師と名づけらるゝが如く{{r|此処|ここ}}に於てもかくの如くなるべしすべての徳行を有する所の人はそれに依りて認識せられそれによりて名称をうけて聖神の恩寵はそれによりて{{r|大|おほい}}に其人を照らすなり。 百八十六、 聖物をいやしめ或は聖なる信仰を{{r|非|そし}}る者あるを見る時は熱心の故に彼に対して心の{{r|擾|みだ}}るゝあり。是れ{{r|宜|よろし}}きや否や。――匡正{{註|悪の}}は悪なる者により成らずして善なるものによりて成らんことは汝の既に聞く所なり。故にかく挙動する者を神を畏るゝの畏れをもて{{r|教誨|きょうかい}}し温柔と寛忍とをもていふべし。されども自から心の{{r|擾|みだ}}るゝを見るあらば何もいふべからず。 百八十七、 我れ{{r|如何|いかん}}すべきか我は{{r|易|たや}}すく欲に{{r|誘|いざな}}はる。――欲と同盟を為すなかれ『汝の目を{{r|反|そら}}して{{r|虚|むなし}}きを見るなかれ』〔[[第十七「カフィズマ」#118:37|聖詠百十八の三十七]]〕汝の手を{{r|貪|たん}}{{r|利|り}}よりとゞめよ、さらば神は汝を欲より救ひ給はん。礼譲をもて己を行ふべく食と飲とを飽くまで味ふなかれ、さらば欲は汝に{{r|鎮|しづ}}まりて汝は安きを得ん。 【188 から 201 まで未入力】 {{DEFAULTSORT:きとうせいせいしゆう わるそのふいいおよひいおあんのきようくん5}} [[Category:祈祷惺々集|95]] 4ah6utp9b8gl6jsl8k0tyhijzmf6zg7 祈祷惺々集 0 31086 188768 188492 2022-08-18T07:21:19Z 村田ラジオ 14210 ヘッダー:override_author wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = 祈祷惺々集 | section = | year = 1896 | 年 = 明治二十九 | override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|フェオファン]] (19世紀) | override_translator = [[作者:堀江復|堀江 {{r|復|ふく}}]] | previous = | next = | notes = *底本:『祈祷惺々集』<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824173 祈祷惺々集] 国立国会図書館 デジタルコレクション</ref> *発行所:正教会編輯局 }} <b>{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}{{r|惺々|せいせい}}{{r|集|しゅう}}</b> == 目次 == [[祈祷惺々集/序|序]] / 1p - 4p 聖大和志理乙の教訓 / 1p 聖約翰金口の教訓 / 45p シリヤの聖エフレムの教訓 / 194p - 229p :[[祈祷惺々集/シリヤの聖エフレムの教訓(1)|シリヤの聖エフレムの教訓(1)]] / 194p :[[祈祷惺々集/シリヤの聖エフレムの教訓(2)|シリヤの聖エフレムの教訓(2)]] / 我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓 / 230p - 296p :[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(1)|我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(1)]] / 230p :[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(2)|我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(2)]] / 243p :[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(3)|我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(3)]] / 258p :[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(4)|我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(4)]] / 271p :[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(5)|我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(5)]] / 284p - 296p シリヤの苦行者克肖ニルの教訓 / 297p - 336p :[[祈祷惺々集/シリヤの苦行者克肖ニルの教訓(1)|シリヤの苦行者克肖ニルの教訓(1)]] / 297p :[[祈祷惺々集/シリヤの苦行者克肖ニルの教訓(2)|シリヤの苦行者克肖ニルの教訓(2)]] イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書 / 337p -429p :[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(1)|イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(1)]] / 337p :[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(2)|イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(2)]] / 356p :[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(3)|イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(3)]] / 376p :[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(4)|イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(4)]] / 394p :[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(5)|イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(5)]] / 413p - 429p 克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教 / 430p - 469p :[[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)|克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)]] / 430p :[[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(2)|克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(2)]] / 449p - 469p シリヤの聖イサアクの教訓 / 470p - 605p :[[祈祷惺々集/シリヤの聖イサアクの教訓(1)|シリヤの聖イサアクの教訓(1)]] / 470p 聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓 / 606p - 697p :[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(1)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(1)]] / 606p :[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(2)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(2)]] / 623p :[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(3)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(3)]] / 640p :[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4)]] / 658p :[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(5)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(5)]] / 677p - 697p 目次/終わり == 出典 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:きとうせいせいしゆう}} [[Category:キリスト教]] [[Category:祈祷惺々集|*]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{PD-old}} }} 4vfnouiel2xeyfk59z644mhnqq05anj Page:Bushido.pdf/175 250 42022 188748 2022-08-17T12:30:41Z 安東大將軍倭國王 29268 /* 校正済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="安東大將軍倭國王" /></noinclude>一見或は狂ならずやと怪しまるゝばかりなるに於て、吾人の心奧は眞に如何の狀を成せるかを說明し得んことをこれ期するのみ。  人又た說をなして、日本人は神經遲鈍なるが故に、能く苦痛に耐へ、死を恐れざるものなりと云ふことあり。果して然りとすとも、猶ほ是れ大いに稱すべし。而して繼いで起るべき問題あり、即ち日本人の神經は何故に、其緊縮の度の他國人よりも更に緩舒なるかと。盖し我國の風土の米國に於けるが如くに人を興奮せしめ得ざるが故なる乎。或は、我國の君主政體は、共和政治の佛國人に於て見るが如くに、國人を激勵すること多からざるが故なる乎。將た又た吾人は、英國人の如くに、銳意『サルトル、レザルタス』を讀む<noinclude></noinclude> jhqyw75mcwdx41yx35t544wvgesp5lw 188759 188748 2022-08-17T23:21:31Z CES1596 4425 /* 検証済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="4" user="CES1596" /></noinclude>一見或は狂ならずやと怪しまるゝばかりなるに於て、吾人の心奧は眞に如何の狀を成せるかを說明し得んことをこれ期するのみ。  人又た說をなして、日本人は神經遲鈍なるが故に、能く苦痛に耐へ、死を恐れざるものなりと云ふことあり。果して然りとすとも、猶ほ是れ大いに稱すべし。而して繼いで起るべき問題あり、即ち日本人の神經は何故に、其緊縮の度の他國人よりも更に緩舒なるかと。盖し我國の風土の米國に於けるが如くに人を興奮せしめ得ざるが故なる乎。或は、我國の君主政體は、共和政治の佛國人に於て見るが如くに、國人を激勵すること多からざるが故なる乎。將た又た吾人は、英國人の如くに、銳意『サルトル、レザルタス』を讀む<noinclude></noinclude> 07id4m667ar4s7tk80dxtkugksyfjna Page:Bushido.pdf/176 250 42023 188749 2022-08-17T12:37:48Z 安東大將軍倭國王 29268 /* 校正済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="安東大將軍倭國王" /></noinclude>こと無きが故なる乎。予は自から信ず、吾人は事に激すること速かに、感情銳敏なるが故に、即ち絕えず之を自制するを必要として、之を勵行するに至りたるものなりと。されど此點に關し、何等の說明を試むるものあらんにも、若し日本民族の古來繼承せる克己自制の修練を考察するにあらずんば、其れ必ずや正鵠を失するものあらん。  克己の修養は、動もすれば其弊に墜ち易くして、靈魂裡に於ける溫然たる暗流を遮ぎることあり、柔順なる天性を撓めて、邪癖偏傾ならしむることあり。克己は執拗を生み、僞善を培ひ、愛情を鈍らすことあり。夫れ何等の高尙なる道德なりとも、必ずや之に對して假僞の生ずることあり。されば吾人は何等の德に於ても其の眞美を認め、これが眞の<noinclude></noinclude> muhaxe2te71u8m295u9ct00kekyd1b0 188760 188749 2022-08-17T23:23:38Z CES1596 4425 /* 検証済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="4" user="CES1596" /></noinclude>こと無きが故なる乎。予は自から信ず、吾人は事に激すること速かに、感情銳敏なるが故に、即ち絕えず之を自制するを必要として、之を勵行するに至りたるものなりと。されど此點に關し、何等の說明を試むるものあらんにも、若し日本民族の古來繼承せる克己自制の修練を考察するにあらずんば、其れ必ずや正鵠を失するものあらん。  克己の修養は、動もすれば其弊に墜ち易くして、靈魂裡に於ける溫然たる暗流を遮ぎることあり、柔順なる天性を撓めて、邪癖偏傾ならしむることあり。克己は執拗を生み、僞善を培ひ、愛情を鈍らすことあり。夫れ何等の高尙なる道德なりとも、必ずや之に對して假僞の生ずることあり。されば吾人は何等の德に於ても其の眞美を認め、これが眞の<noinclude></noinclude> drsv40ib8xo67fmtb50dovs6tzyhurw Page:Bushido.pdf/177 250 42024 188750 2022-08-17T12:46:14Z 安東大將軍倭國王 29268 /* 校正済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="安東大將軍倭國王" /></noinclude>理想を追求せざるべからず。而して自制克己の理想とする所は、即ち所謂、心念の平衡を持するに在り。希臘語を借りて之を云へば、即ちデモクリタスが至善を稱したる『ユウシミア』の狀態を得るに在り。  克己の極致は切腹の之を明かにするあり。されば予は是より切腹と敵討との二制度に就いて觀察する所あらんとす。 {{nop}}<noinclude></noinclude> 63gf9w765bt4wdp4ysirfa0mqjgu04b 188761 188750 2022-08-17T23:24:38Z CES1596 4425 /* 検証済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="4" user="CES1596" 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切腹及び敵討の二制度に就いては、幾多海外文士の之を說いて、やゝ詳なるものあり。  切腹又た割腹即ち世俗に{{傍点|style=circle|はらきり}}と云ふは、其字の示すが如く、腹部を切りて自殺することなり。初めて此語を聞く者の或は叫びて云はん、『腹を切るは、何ぞ其の不合理なる』と。然り、外人の耳朶には、必ず先づ奇怪不合理の感を與ふべしと雖、凡そ沙翁を讀みたるものならんには、之に由りて甚だしく奇異の感を起さざるべし。彼はブルタスの口に上ぼせて、『汝シーザーの魂魄現はれ、我が劍を逆にし<noinclude></noinclude> oifvia05aplmwvfglku8b2ya1e09puu Page:Bushido.pdf/179 250 42026 188752 2022-08-17T13:07:23Z 安東大將軍倭國王 29268 /* 校正済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="安東大將軍倭國王" /></noinclude>て、正しく我腹を刺さしむ』と云へるに非らずや。又た近時の英國詩宗が、『亞細亞の光』に於て、劍を以て女皇の腹を貫くを詠ずるを讀め、而して人の彼れを罵つて猥褻なる英語を用ゐるものとなし、又た禮を失するものとなすこと無し。更に他の一例を擧ぐれば、ゼノアのプラッゾ、ロツサの美術館に入つて、ゲルチノが筆に成れるカトー自殺の繪畵を見よ。又たアヂソンがカトーをして歌はしめたる、絕命の詩を讀みたるものゝ、劍は深く其腹を刺すの姿態を冷罵すること無けん。日本人の割腹を見ること、此れに伴ふに頗る高尙なる行爲と、悽愴なる悲哀の事例とを有するを以て、毫も嫌惡の感を生ずること無し、されば焉んぞ之に酬ゆるに嘲笑を以てすべけんや。夫れ德性、偉大、優情の事物を<noinclude></noinclude> g52a8p9j9rgk2pqphnor6gutju0sh6l 188763 188752 2022-08-17T23:28:07Z CES1596 4425 /* 検証済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="4" user="CES1596" /></noinclude>て、正しく我腹を刺さしむ』と云へるに非らずや。又た近時の英國詩宗が、『亞細亞の光』に於て、劍を以て女皇の腹を貫くを詠ずるを讀め、而して人の彼れを罵つて猥褻なる英語を用ゐるものとなし、又た禮を失するものとなすこと無し。更に他の一例を擧ぐれば、ゼノアのプラッゾ、ロツサの美術館に入つて、ゲルチノが筆に成れるカトー自殺の繪畵を見よ。又たアヂソンがカトーをして歌はしめたる、絕命の詩を讀みたるものゝ、劍は深く其腹を刺すの姿態を冷罵すること無けん。日本人の割腹を見ること、此れに伴ふに頗る高尙なる行爲と、悽愴なる悲哀の事例とを有するを以て、毫も嫌惡の感を生ずること無し、されば焉んぞ之に酬ゆるに嘲笑を以てすべけんや。夫れ德性、偉大、優情の事物を<noinclude></noinclude> s5a3nigb9kdmr8bh30bzqqzjzxswtqq Page:Kokubun taikan 07.pdf/573 250 42027 188753 2022-08-17T19:58:29Z CES1596 4425 /* 校正済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>社の神馬ところどころの御誦經の使、四位五位數をつくして鞭をあぐるさま、いはずともおしはかるべし。おとゞとりわき春日の社へ拜して御馬宮の御ぞなどたてまつらる。うちには更衣ばらに若宮二所おはしませど、この御事を侍ちきこえ給ふとて坊定り給はぬほどなり。たとひたひらかにおはしますとも、もし女みや{{*|御子イ}}ならばとまがまがしきあらましは、かねておもふだに胸つぶれて口をし。かつは我が御身のしゆくせ見ゆべききはぞかしとおぼして、おとゞもいみじう念じたまふに、ひつじのくだりほどにすでにことなりぬ。宮の御せうと公相の大納言「皇子御誕生ぞや」といとあざやかにのたまふを、聞くひとびとの心ち夜の明けたらむやうなり。父おとゞ「まことか」とのたまふまゝによろこびの御淚ぞ落ちぬる。あはれなる御けしきと見たてまつる人もこといみしあへず。公相、公基、實雄、大納言三人、權大夫實藤、大宮中納言公持皆御ゆかりの殿ばらうへのきぬにてさぶらひ給ふ。みしほどもやがて結願すべしとて僧ども法師ばらまでしたり顏に汗おしのごひつゝいそがしげにありくさへぞめでたき。月なみの御神事なるうへ、今日ひついて心やましき事とかやにてわざと奏し給はねど。御驗者櫻井の宮の僧正號{{*|覺仁法親王}}をはじめ奉りて、つぎつぎ皆祿たまふ。ほつ親王には宮の御ぞ大夫とりて奉り給ひ、字治のさきの僧正には公基の大納言、房意法印には權大夫公持かづけ給ふ。御馬はおのおの本坊に送られけり。又の日月なみの祭はてゝ御はかしまゐる。勅使隆郞{{*|良イ}}なりき。十二日三夜の儀式大宮の御沙汰にていとめでたし。やがて御湯殿の事あれば、つるうち五位十人六位十人ならびたつ。御文の博士光兼朝臣、右衞門權佐すけさだ、大<noinclude></noinclude> 6qqnfh7r90n696q4bcvnpet65dasgow Page:Kokubun taikan 07.pdf/574 250 42028 188754 2022-08-17T20:18:54Z CES1596 4425 /* 校正済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>外記もろみつなど寢殿の南おもての庭に立ちて孝經の天子の章をぞよむ。その上達部簀子にさぶらひ給ふ。あしたの御湯はてゝ皆まかでゝ後、又夕の御湯殿の儀式さきのまゝにてはてぬる後、寢殿の南東の間に白き袖口どもおしいださる。しろゑの五尺の屛風たて渡して、上達部よりすゑきて、饗どもすゑわたす。公卿の座に人々二行につきあまるほどなり。右大將{{*|さねもと}}、大夫{{*|きんすけ}}、公基、實雄、以上大納言。中納言に左衞門督{{*|あきちか}}、權大夫{{*|さねふぢ}}、公持、侍從宰相{{*|すけすゑ}}、別當{{*|きんみつ}}、左代辨宰相{{*|つねみつ}}、新宰相{{*|さだつぐ}}、右兵衞督{{*|ありすけ}}、新宰相中將{{*|みちゆき}}などつきたり。その座の末に紫べりのたゝみに殿上人中將實直朝臣をはじめて數しらずまゐれり。御前のものども殿上の四位はこぶ。ちご御子の御ぞの案二脚はしかくしの間にかきたつ。御かはらけ二めぐりの後、大夫{{*|きんすけ}}らうえい「嘉辰令月」とのたまへば、有資聲くはへらる。又「昭王」とおし重ねていださる。御聲々しう德にあらまほしうめでたし。かやうにて明けぬ。十四日に五夜の儀式さきの如し。今宵は御遊あり、實基の大將殿總{{*|德大寺}}拍子とり給ふ。笙宗基、笛二位中納言{{*|よしのり}}、「篳篥兼敎朝臣、琵琶大夫{{*|きんすけ}}、箏のこと權の大夫{{*|さねふぢ}}、和琴{{*|ありけす}}、末の拍子もおなじ人なりしにや。安名尊、鳥破、席田、伊勢海、萬歲樂、三臺急例の事なり。かずかずめでたし。十六日七夜の御うぶ養、內よりの御沙汰なれば今すこし儀式ことにていかめし。關白殿、右のおとゞ右大將{{*|ともざね}}、大納言定雅、公相、公基、實雄。中納言には例の人々、顯親、實藤、公持、資季、公光、經光、定嗣、三位中將{{*|みちなり}}、殿上人頭中將{{*|もろつぐ}}より始めて殘るはすくなし。勅使藏人侍從宗基、目錄もちてまゐれり。大夫對面し給ひて白き御ぞかづけ給ふ。大{{*|本イ}}宮のものどもにもうち<noinclude></noinclude> 7m8e7o8yyw98lkw88sp0j4egac21vw9 188757 188754 2022-08-17T23:12:47Z CES1596 4425 proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>外記もろみつなど寢殿の南おもての庭に立ちて孝經の天子の章をぞよむ。その上達部簀子にさぶらひ給ふ。あしたの御湯はてゝ皆まかでゝ後、又夕の御湯殿の儀式さきのまゝにてはてぬる後、寢殿の南東の間に白き袖口どもおしいださる。しろゑの五尺の屛風たて渡して、上達部よりすゑきて、饗どもすゑわたす。公卿の座に人々二行につきあまるほどなり。右大將{{*|さねもと}}、大夫{{*|きんすけ}}、公基、實雄、以上大納言。中納言に左衞門督{{*|あきちか}}、權大夫{{*|さねふぢ}}、公持、侍從宰相{{*|すけすゑ}}、別當{{*|きんみつ}}、左代辨宰相{{*|つねみつ}}、新宰相{{*|さだつぐ}}、右兵衞督{{*|ありすけ}}、新宰相中將{{*|みちゆき}}などつきたり。その座の末に紫べりのたゝみに殿上人中將實直朝臣をはじめて數しらずまゐれり。御前のものども殿上の四位はこぶ。ちご御子の御ぞの案二脚はしかくしの間にかきたつ。御かはらけ二めぐりの後、大夫{{*|きんすけ}}らうえい「嘉辰令月」とのたまへば、有資聲くはへらる。又「昭王」とおし重ねていださる。御聲々しう德にあらまほしうめでたし。かやうにて明けぬ。十四日に五夜の儀式さきの如し。今宵は御遊あり、實基の大將殿{{*|德大寺}}拍子とり給ふ。笙宗基、笛二位中納言{{*|よしのり}}、篳篥兼敎朝臣、琵琶大夫{{*|きんすけ}}、箏のこと權の大夫{{*|さねふぢ}}、和琴{{*|ありけす}}、末の拍子もおなじ人なりしにや。安名尊、鳥破、席田、伊勢海、萬歲樂、三臺急例の事なり。かずかずめでたし。十六日七夜の御うぶ養、內よりの御沙汰なれば今すこし儀式ことにていかめし。關白殿、右のおとゞ右大將{{*|ともざね}}、大納言定雅、公相、公基、實雄。中納言には例の人々、顯親、實藤、公持、資季、公光、經光、定嗣、三位中將{{*|みちなり}}、殿上人頭中將{{*|もろつぐ}}より始めて殘るはすくなし。勅使藏人侍從宗基、目錄もちてまゐれり。大夫對面し給ひて白き御ぞかづけ給ふ。大{{*|本イ}}宮のものどもにもうち<noinclude></noinclude> 7537g1shz9lbv1s42nshvvjeyqzr56x Page:Kokubun taikan 07.pdf/575 250 42029 188755 2022-08-17T20:26:34Z CES1596 4425 /* 校正済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>より錄たまふ。內膳司まゐりて、うるはしき作法にて南殿より御前まゐるさま、日ごろのには似ずけだかうめでたし。その後御あそびはじまる。人々の所作さのみは珍しげなくてとゞめつ。九夜は承明門院よりの御沙汰なれば、それもいかめしき事どもありしかどうるさくてなむ。こゝらの年ごろおぼしむすぼゝれつる女院の御心の中名殘なく胸あきて、めでたくおぼさるゝ事かぎりなし。閑院殿修理せらるゝ程とて十五日に御門承明門院へ行幸なれば、いとゞしげうさへ見奉らせたまふに御心ゆく事多く、げにいみじきおいの御さかえなりかし。覺子內親王とて御傍におはしましつる御うまご、これも土御門の院の姬宮さへこの廿六日かとよ、院になし奉らせ給へり。おほぎまちの院ときこゆ。うへのおなじ御腹におはすれば、よろづ定通のおとゞ事行ひ給ふ。院號のさだめ侍るまゝに、陣より上達部皆ひきつれて承明門院へまゐる。おとゞは御簾のうちにて女房の事どもなど忍びやかにおきてのたまひけり。其の夜又兵衞內侍の御はらの若宮{{*|宗尊親王の御事なり}}、御いかの儀式この院にて沙汰あり。后腹の御子ほどこそおはせねど、これも御門わたくしものにいといとほしうおぼすことなれば、御けしきにしたがひて上達部殿上人いみじうまゐりつどふ。關白殿まゐりたまひてくゝめ奉りたまふ。陪膳通成三位中將、やくそう家定朝臣つかうまつりける。人々のけんばい饗などはなし、建久に土御門院の御いかきこしめしける例とぞ。かくて中宮の若宮はその廿八日に親王の宣旨あり。さて七月廿八日に中宮も今宮も內にまゐりたまふ。例の事なればかなたこなたの供奉上達部、殿上人かずをつくして、ふるきためしもいと稀なるほどにぞ聞えける。宮は<noinclude></noinclude> 4h72m8af0shvk7f9s62f5unsy3453un 188758 188755 2022-08-17T23:15:34Z CES1596 4425 proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>より錄たまふ。內膳司まゐりて、うるはしき作法にて南殿より御前まゐるさま、日ごろのには似ずけだかうめでたし。その後御あそびはじまる。人々の所作さのみは珍しげなくてとゞめつ。九夜は承明門院よりの御沙汰なれば、それもいかめしき事どもありしかどうるさくてなむ。こゝらの年ごろおぼしむすぼゝれつる女院の御心の中名殘なく胸あきて、めでたくおぼさるゝ事かぎりなし。閑院殿修理せらるゝ程とて十五日に御門承明門院へ行幸なれば、いとゞしげうさへ見奉らせたまふに御心ゆく事多く、げにいみじきおいの御さかえなりかし。覺子內親王とて御傍におはしましつる御うまご、これも土御門の院の姬宮さへこの廿六日かとよ、院になし奉らせ給へり。おほぎまちの院ときこゆ。うへのおなじ御腹におはすれば、よろづ定通のおとゞ事行ひ給ふ。院號のさだめ侍るまゝに、陣より上達部皆ひきつれて承明門院へまゐる。おとゞは御簾のうちにて女房の事どもなど忍びやかにおきてのたまひけり。其の夜又兵衞內侍の御はらの若宮{{*|宗尊親王の御事なり。}}、御いかの儀式この院にて沙汰あり。后腹の御子ほどこそおはせねど、これも御門わたくしものにいといとほしうおぼすことなれば、御けしきにしたがひて上達部殿上人いみじうまゐりつどふ。關白殿まゐりたまひてくゝめ奉りたまふ。陪膳通成三位中將、やくそう家定朝臣つかうまつりける。人々のけんばい饗などはなし、建久に土御門院の御いかきこしめしける例とぞ。かくて中宮の若宮はその廿八日に親王の宣旨あり。さて七月廿八日に中宮も今宮も內にまゐりたまふ。例の事なればかなたこなたの供奉上達部、殿上人かずをつくして、ふるきためしもいと稀なるほどにぞ聞えける。宮は<noinclude></noinclude> egf5wa16xaja5t55wgp6ch67d4zwo2y Page:Kokubun taikan 07.pdf/576 250 42030 188756 2022-08-17T20:36:43Z CES1596 4425 /* 校正済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>御輿、御子は靑絲毛の御車、近衞大將、檢非違使の別當をはじめてゆゝしき人々仕うまつらる。こよなき見物にてぞ侍りける。閏七月二日、內にてみ子の御いかきこしめす。くら司より事ども調じて參る。御膳の物屯食折櫃のもの、何くれ心ことなり。時なりてうへこなたに渡らせ給ふ。御供に關白殿、堀川大納言{{*|ともざね}}、大夫{{*|きんすけ}}、左大將{{*|たゞまさ}}、關白殿の御子の三位中將{{*|みちよし}}、まゐり給ふ。うへくゝめ奉らせ給ふさまいといとめでたし。同じ事のやうなればこまかには書かず。かくて八月十日すかやかに太子にたち給ひぬ。{{*|後の深草の院の御事なり。}}おとゞ御心おちゐてすゞしくめでたう思すことわりなり。「大方のいみじかりし世の響に女み子にておはせましかば、いかにしほしほと口惜しからまし。いときらきらしうてさし出で給へりし嬉しさを思ひ出づれば、見奉るごとに淚ぐまれて忝う覺え給ふ」とぞ年たくるまで常はおとゞ人にものたまひける。中比はさのみしもおはせざりし御家の、近くよりはことのほかに世にもおもくやんごとなう物し給ひつるに、この后の宮參り給ひ、春宮生れさせ給ひなどして、いよいよ榮えまさり給ふ行く末推し量られていとめでたし。父の入道殿さへ御命ながくて、かゝる御末ども見給ふもさこそは御心ゆくらめとおし量るもしるく、其の年の十月七日かとよ、都を立ちて熊野に詣で給ふ。作法のゆゝしさ、昔の古き御代の御幸どもにも稍たちまさる程にぞ侍りし。御子うまごまでひき具し給ふ。大納言に實雄{{*|御子}}、公相{{*|御孫}}、公基。前藤大納言とありしは爲家の事にや。坊門前大納言もつゐせふに京出はこせふせられたり。大宮中納言{{*|きんもち}}、左宰相の中將{{*|さねたふ}}、右兵衞督{{*|ありすけ}}、殿上人は三十餘人侍りけり。いといみじかりし事どもなり。かくて同<noinclude></noinclude> g9dyetmlgtcrs9uuz9z0nz0rt3oxpkh トーク:国葬令 1 42031 188767 2022-08-18T06:32:36Z Hamataro2021 36196 /* 第一條「」 */ 新しい節 wikitext text/x-wiki == 「第一條 大喪儀ハ國喪トス」→「…國葬…」では? == 単にタイプミスの指摘です。 (誤)第一條 大喪儀ハ國喪トス (正)第一條 大喪儀ハ國葬トス 根拠は国立公文書館デジタルアーカイブの画像データ。--[[利用者:Hamataro2021|Hamataro2021]] ([[利用者・トーク:Hamataro2021|トーク]]) 2022年8月18日 (木) 06:32 (UTC) j4xwmkbocb55jtav0o8z2f8yuvtyxun 祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(5) 0 42032 188770 2022-08-18T07:28:08Z 村田ラジオ 14210 ページの作成:「{{Pathnav|Wikisource:宗教|祈祷惺々集|hide=1}} {{header | title = 祈祷惺々集 | section = 聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(5) | year = 1896 | 年 = 明治二十九 | override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|フェオファン]] (19世紀) | override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} | noauthor = | previous = 祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイ…」 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|祈祷惺々集|hide=1}} {{header | title = 祈祷惺々集 | section = 聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(5) | year = 1896 | 年 = 明治二十九 | override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|フェオファン]] (19世紀) | override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} | noauthor = | previous = [[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4)]] | next = | notes = *発行所:正教会編輯局 }} <b>聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓</b> ::<b>祈祷と清醒の事</b> 百六十二、 {{r|幾何|いくばく}}の能力を有するありとも自ら{{r|何人|なにびと}}よりも{{r|卑|ひく}}く{{r|視|み}}んことを{{r|強|つと}}めて日夜己を{{r|卑|ひく}}うすべし。{{r|是|こ}}れ真実の{{r|路|みち}}なり、此の{{r|外|ほか}}の{{r|路|みち}}あるなし。 百六十三、 もし我れ誰彼となく不適当に動作するを見る時は我れ其の不適当を批判するを得るか。さらば此れより流るゝ近者を{{r|議|ぎ}}するの議を{{r|如何|いかん}}して{{r|逃|のが}}るべきか。――実に不適当なる行為は{{r|我|われ}}{{r|儕|ら}}これを不適当と認めざるを得ず、けだし然らずんばこれより生ずる所の害を我等いかにして避けんや。されどもかゝる{{r|行|おこなひ}}を為す所の其人を{{r|議|ぎ}}すべからず、聖書に『人を議するなかれ汝議せられざるを致せ』〔[[ルカによる福音書(口語訳)#6:37|ルカ六の三十七]]〕といふに依るも又我等は自ら己を悉くの人より{{r|尚|なほ}}罪なる者と認むべきに依るも{{r|且|かつ}}兄弟の罪を犯せるを我等は己の犯せるものと思ひて{{r|唯|ただ}}其の彼を誘惑したる{{r|魔鬼|まき}}を憎むべきに依るもかくの如し。誰か他を{{r|坑|あな}}に{{r|擠|お}}したらんには我等は{{r|其坑|そのあな}}に陥りし者を責めずして彼を{{r|擠|お}}したる者を責む、{{r|此処|ここ}}に於ても実にかくの如し。人の事を為すや其の見る者の為には適当ならざるが如くに見ゆるも{{r|其|その}}{{r|為|な}}す者の善意によりて行ふの場合あり。さればこれと同じく我等も{{r|亦|また}}其の罪を犯したる兄弟が既に己の謙遜と信認とに由り悔改をもて神の喜ぶ所となると否とを知らざることあり。<u>ファリセイ</u>人は己が{{r|自誉|じよ}}の為めに定罪せられて{{r|退|しりぞ}}けり。此を知りて我等は{{r|税|ぜい}}{{r|吏|り}}の謙遜に{{r|法|のつと}}り自ら己を罪せん、義とせられんが為なり、又<u>ファリセイ</u>の{{r|自誉|じよ}}を避けん、定罪せられし者とならざらんが為なり。 百六十四、 他人と共にするに{{r|愧耻|きち}}の為めに心乱れ我が談の愚にして言語に交ゆるに意味なき{{r|笑|わらい}}を以てするの時あり、いかにすべきか。――それ神を{{r|畏|おそ}}るゝの{{r|畏|おそ}}れはすべての心の{{r|擾|みだ}}れとすべての不順序と混雑とを避くべし。故に我等は談話に先だちまづ己を神を{{r|畏|おそ}}るるの{{r|畏|おそ}}れに固めて我等{{r|何故|なにゆえ}}{{r|擾乱|じょうらん}}するか{{r|且|かつ}}{{r|嗤|し}}{{r|笑|しょう}}するか{{r|子|し}}{{r|細|さい}}に己の心に於て{{r|穿鑿|せんさく}}せん、けだし神を畏るるの畏れに{{r|嗤|し}}{{r|笑|しょう}}あるなければなり。聖書に愚者の事を{{r|謂|い}}ふ『彼等は{{r|笑|わらい}}に於て{{r|其|その}}{{r|声|こえ}}を{{r|挙|あ}}ぐ』〔[[ベン・シラの智慧 第二十一章|シラフ二十一の二十三]]〕と。{{r|且|かつ}}愚者の{{r|言|ことば}}は擾乱して恩寵を奪はる。されども義人のことはいふあり彼の{{r|笑|わらい}}は『{{r|僅|わずか}}に微笑に{{r|止|とど}}まる』と。故にもし我等は己に神を{{r|念|おも}}ふの記憶を{{r|起|おこ}}し{{r|又|また}}我が{{r|兄弟|けいてい}}と談話するに謙遜と沈着なる思念とを以てすべしとの念を起し{{r|且|かつ}}{{r|此|これ}}を回想して神の畏るべき審判を常に目前に有するある時はかくの如き心掛けはもろ〳〵の悪しき念慮を我が心より{{r|追|お}}はん、けだし沈黙、温柔及び謙遜のある処に神は{{r|住|やど}}り給へばなり。神の聖なる名を呼ぶことの我等に必要なるをまづ第一に想起せん、けだし神のある処にすべて善なる者のあるは{{r|魔鬼|まき}}のある所にすべて悪なる者のあると同じく明々白々なればなり。 百六十五、 自由の交際に二種あり、{{r|一|いつ}}は{{r|無耻|むち}}より生ずるものにして萬悪の根本なり、{{r|又|また}}{{r|一|いつ}}は快楽より生ずるものなり、{{r|然|しか}}れども此の後者もこれを数々する者の為めに全く有益なるにはあらず。さりながらたゞ其の堅固にして有力なる者は{{r|両|ふた}}つながらこれを避くることを{{r|得|う}}れども我等は己の{{r|荏弱|じんじゃく}}の為めに{{r|此|これ}}を避くる能はざるにより其の兄弟に{{r|誘|いざなひ}}を致すの縁由を{{r|與|あた}}へざらんやうに注意して快楽より生ずる所の自由の交際を時あり少なくも許容することあり。されども戯笑に{{r|至|いたり}}てはこれに自由を許すべからず、其の戯笑を礼譲をもて{{r|過|すご}}さんが為めに思念を制すべし。けだし自から戯笑に自由を與ふる所の者は此れよりして淫蕩にも陥るを知るべし。 百六十六、 {{r|諂諛|へつらい}}を欲するによりて人は高慢するに至る。されど高慢が乗ずる時は{{r|驕傲|きょうごう}}を生ず。 百六十七、 神の機密の事は{{r|或|あるい}}は探問するを要するか。又罪人は機密に{{r|就|つ}}き{{r|不|ふ}}{{r|當|とう}}なる者として定罪せらるゝか。――<u>ハリストス</u>の体と血とをうけんが為めに聖堂に{{r|来|きた}}りてこれをうくるあらば此の{{註|機密の}}真理に{{r|疑|うたがひ}}なく{{r|信|しん}}を置くやうに己れに注意すべし。されども此の機密の{{r|如何|いかん}}を好んで探問するなかれ『此れ我が体なり此れ我が血なり』といはれし如く{{r|其|その}}まゝ信ずべし。主は罪を赦すが為めにこれを我等に{{r|與|あた}}へ給へり。〔[[マタイによる福音書(口語訳)#26:26|馬太廿六の廿六]]、馬可十四の廿二〕。かくの如く信ずる者は罪せられざるも信ぜざる者は{{r|最早|もはや}}罰せらる、我等はこれを信用す。故に罪人の如く己れを{{r|定罪|ていざい}}しつゝ{{r|就|つ}}くを自ら禁ずるなかれ、救世主に就く所の罪人は罪の赦しを賜はるを承認すべし。それ我等は聖書に於て信仰をもて救世主につき其の神なる声をきゝし者を見るなり、曰く『汝の多くの罪は汝に赦さる』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#9:2|馬太九の二]]、馬可二の五、ルカ七の四十七、四十八〕。故に汝は己を罪人と承認し亡びし者を救はんことを能くし給ふ者に就くべし。〔[[マタイによる福音書(口語訳)#18:11|馬太十八の十一]]、ルカ十九の十〕。 百六十八、 我れに多くの不潔なる思念の生ずるあらんに我れこれを誰にでも言ふを自ら{{r|耻|は}}づる時はいかに行為すべきか。――これ神につげて{{r|左|さ}}の如くいふべし、{{r|曰|いは}}く主宰よ{{r|我|わ}}れ{{r|識|し}}ると{{r|識|し}}らざるとにより{{r|汝|なんぢ}}の{{r|旨|むね}}に{{r|戻|もと}}る{{r|事|こと}}を思念したるを{{r|我|わ}}れに赦し給へ、けだし{{r|汝|なんぢ}}の{{r|矜恤|あはれみ}}は世々にあればなり、アミン。 百六十九、 我れ淫慾に苦む、我れ{{r|如何|いか}}に為すべきか。――出来るだけ{{r|自|みず}}から己を{{r|疲|つか}}らすべし、然れども又己の力を量るべし、さりながら{{r|此|かれ}}に自ら依頼するなく神の愛と{{r|庇|ひ}}{{r|蔭|いん}}とに依頼すべし、又失心に沈むなかれ。けだし失心は萬悪の始めなればなり。 百七十、 {{r|嗜|し}}{{r|甘|かん}}、{{r|貪財|たんざい}}、{{r|貪獲|たんかく}}及び其他の欲の{{r|戦|たたかひ}}は我を{{r|擾|みだ}}す、我れ如何に為すべきか。――嗜甘の欲の戦ふ時は力を{{r|尽|つく}}し神の為めに苦戦して身体に其の要求するだけを{{r|與|あた}}ふるなかるべし。貪財{{註|貪獲}}に関しても{{r|亦|また}}同様に行ふべし。{{r|戦|たたかひ}}の汝を{{r|擾|みだ}}すある間は{{r|襦袢|じゅばん}}又は土器に至る迄も{{r|餘|よ}}{{r|分|ぶん}}のものは一も断じて得るなかれ、且最小なる物に於て、苦戦すべし{{註|貪獲に向つて}}。さて神の助けにより{{r|此|この}}{{r|戦|たたかひ}}に勝つ時は汝に要用なるものを神に{{r|依|より}}て獲よ。他の諸欲につきても亦かくの如く{{註|実験的反対をもて}}行ふべし。 百七十一、 たやすく発怒する所の兄弟につげん、もし汝はすべての人の為めに自ら死し多少の謙遜を有せんことを自ら{{r|強|つと}}むるあらば平安を有するを{{r|得|う}}べく多くの災難を免れん。汝の心は神の前に謙るべし、さらば神の恩寵はすべてに於て我等を保護せん。 百七十二、 もし汝は{{註|病弱の為め}}{{r|唱|しょう}}{{r|詩|し}}と祈祷とを坐して行ふも感動と共に行ふ時はこれ汝の奉事の神意に適ふを妨げざるなり、けだし誰か立ちてこれを行ふも放心を以てするならば其の労は無に帰せん。 百七十三、 {{r|汝|なん}}ぢ{{r|或|あるい}}は立つか或は坐するか或は{{r|寝|い}}ぬるか汝の心を汝の{{r|唱|しょう}}{{r|詩|し}}の勤めに於て{{r|儆醒|けいせい}}せしむべし。日夜間断なく神に{{r|趨|はし}}り着きて祈祷に己を{{r|委|ゆだ}}ぬべし、然る時は霊魂を{{r|打贏|うちまか}}す所の敵は{{r|耻|はぢ}}を{{r|蒙|こうむ}}りて退かん。 百七十四、 我が神を希望するの徴候は如何なるか、又罪の赦さるゝの徴候は如何なるか。――神を希望するの徴候は{{r|肉躰|にくたい}}の為めに配慮するすべての念を己れより{{r|抛擲|ほうてき}}して此世に何物をか有せんことを断じて思はざるにあり、けだし然らずんば汝はこれに{{r|望|のぞみ}}を有して神に有するにあらざるなり。又罪を赦さるゝの徴候は罪を憎んで{{r|復|ふたた}}び行はざるにあり。されども人、罪事を思ふて其心にこれを楽み或はこれを実際に行ふある時は是れ即ち罪は其人にいまだ赦されずして{{r|猶|なほ}}罪人と認めらるべき徴候なり。 百七十五、 定理の書を読むべきか。――汝が此等の書を研究せんことは我は願はざらん、何となれば此等の書は智識を上に挙ぐればなり、{{r|寧|むし}}ろ智識を下に{{r|遜|へりくだ}}らしむる諸老人の{{r|言|ことば}}を学ぶべし。我が{{r|此|か}}くいふは定理の書を{{r|卑|いやし}}むが為めにあらず、たゞ汝に{{r|勧|かん}}{{r|諭|ゆ}}するのみ、けだし食物は種々あればなり。 百七十六、 聖書にいふ『君長たるもの汝に向ひて発怒するも汝の本所を離るゝなかれ』〔[[伝道の書(口語訳)#10:4|伝道書十の四]]〕。是れ何を意味するか。――是れ即ち思念をして{{傍点|汝に向つて発怒}}せしむるなかれ、これと談話するなかれ、{{r|乃|すなは}}ち神に依頼せよとなり、けだし彼れに{{註|思念に}}答ふるあらんと欲する時は彼の事を回想するに引入れられて彼は汝を祈祷の熱心より離れしむべければなり。 百七十七、 誰彼に論なく我を悪しくいふあるを聴く時は我れ如何に為すべきか。――直ちに祈祷に起ちて先づ某者の為に祈るべく{{r|次|つい}}で己の為に祈りていふべし、曰く主<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>や此の兄弟と汝が無用の{{r|僕|ぼく}}たる我を{{r|矜|あはれ}}み汝が諸聖人の祈祷をもて我等をあしきより{{r|庇|かば}}ひ{{r|給|たま}}へ、あみん。 百七十八、 誰か他を悪言し始むるあらんに気付く時は{{r|速|すみやか}}に談話をやめ或はこれを他の更に有益なる談話に{{r|易|か}}へんを要す、{{r|尚|なほ}}此事に於て{{r|遷延|せんえん}}するなかるべし、多言により{{註|再び}}悪言に陥らざらんが為なり。 百七十九、 悪言を楽んできくはこれ{{r|亦|また}}{{r|同|おなじ}}く悪言にして同様の定罪をうけん。 百八十、 無力の為めに生ずる天性自然の失心あり又魔鬼より来るの失心あり。もし汝はこれを弁別せんと欲せば左の如く弁別すべし、魔鬼に属するものは其の己れに休息を與ふるを要するの時に先だちて来らん、けだし人何にても為し始むるある時は事の三四分の一成らんとするに先だち彼は人をして事をすてゝ起たしむるなり。其時は彼に聴従すべからず乃ち祈祷を行ひ忍耐して事に勉励すべし、さらば敵は人の此事の為めに祈祷を行ふを見て彼と戦ふをやめん、けだし敵は祈祷に端緒を與ふるを欲せざればなり。 百八十一、 {{註|長老は}}兄弟につげて左の如く言ふべし『願くは誰も思念を隠さゞらんことを、けだしもし誰か思念を隠すあらば魔鬼は{{r|喜|よろこん}}で彼の{{r|霊|たましひ}}を{{r|滅|めつ}}すに尽力せん』と。然るに兄弟の{{r|中|うち}}誰か汝に自己の思念をつぐるある時は心中に呼んで左の如くいふべし『主よ兄弟の霊魂の{{r|救|すくひ}}の為めに爾の意に{{r|随|したがひ}}て我れを教へ給へ我れ彼れにいふことを得んが為めなり又汝の言をいひて我が言をいはざらんが為なり』。 百八十二、 己を{{註|長老は}}悉くの人より{{r|卑|いやし}}く思ふべし。されどもこれと同じく汝は悉くの人の{{r|治|ぢ}}{{r|者|しゃ}}にして汝がうくる所の位の為めに{{r|答責|とうせき}}を與へざるべからざる者と思ふべし。 百八十三、 もし我れ誰なりとも何事をか為すを見て其を他の人に話説せんに{{r|余|わ}}れ彼を議するにあらず我等{{r|互|たがい}}に談話するのみといふならば此の時我の{{r|思|おもひ}}に誹謗あるなきか。――人は此をいひつゝ此時に欲の動きを感ずるあらばこれ{{r|最早|もはや}}誹謗なり。されども彼れもし欲より免るゝあらばこれ悪言にあらずして悪を成長せしめざるが為めに言ふなり。 百八十四、 誰か自由にして己れに罪と悪とを有するか又誰か自由ならずして有するか。――自由にして己れに罪と悪とを有するとは己の自由を悪に{{r|委|ゆだ}}ねこれをもて{{r|楽|たのし}}みこれと{{r|親|したし}}む者是なり。かくの如き者は「サタナ」と親睦し{{r|思|おもひ}}に於てこれと{{r|戦|たたかひ}}を{{r|作|な}}さゞるなり。されども自由ならずして己れに悪を有する者とは使徒の{{r|言|ことば}}に依るに〔[[ローマ人への手紙(口語訳)#7:23|ローマ七の廿三]]〕其の肢体に於て抵敵する反対の力あるを覚ゆるあり、且或る黒暗の力の己れを覆ふあれどもたゞ思念中にあるのみにして思念がこれと合同せずこれをもて楽まずこれに{{r|従|したが}}はず{{r|却|かへ}}りて反論、抵抗、逆言、抵敵して自から己を怒る所の者是れなり。 百八十五、 {{r|体|たい}}は{{r|一|いつ}}なれども{{r|肢|えだ}}は多し、されども一肢を欠くあらば体は完全の体にあらざるが如く多くの徳行をもて{{r|其肢|そのえだ}}とする内部の人の事も亦同く然るを知るべし。もし{{r|其中|そのうち}}一つを不足するあれば人は{{r|最早|もはや}}完全の人にあらざるなり。されば己の本職を善く知り又其の才智の{{r|敏捷|びんしょう}}なるに依りて他の諸の職業をも学ぶ所の職工は其の諸の職業の師とは名づけられずしてたゞ其の本職の師と名づけらるゝが如く{{r|此処|ここ}}に於てもかくの如くなるべしすべての徳行を有する所の人はそれに依りて認識せられそれによりて名称をうけて聖神の恩寵はそれによりて{{r|大|おほい}}に其人を照らすなり。 百八十六、 聖物をいやしめ或は聖なる信仰を{{r|非|そし}}る者あるを見る時は熱心の故に彼に対して心の{{r|擾|みだ}}るゝあり。是れ{{r|宜|よろし}}きや否や。――匡正{{註|悪の}}は悪なる者により成らずして善なるものによりて成らんことは汝の既に聞く所なり。故にかく挙動する者を神を畏るゝの畏れをもて{{r|教誨|きょうかい}}し温柔と寛忍とをもていふべし。されども自から心の{{r|擾|みだ}}るゝを見るあらば何もいふべからず。 百八十七、 我れ{{r|如何|いかん}}すべきか我は{{r|易|たや}}すく欲に{{r|誘|いざな}}はる。――欲と同盟を為すなかれ『汝の目を{{r|反|そら}}して{{r|虚|むなし}}きを見るなかれ』〔[[第十七「カフィズマ」#118:37|聖詠百十八の三十七]]〕汝の手を{{r|貪|たん}}{{r|利|り}}よりとゞめよ、さらば神は汝を欲より救ひ給はん。礼譲をもて己を行ふべく食と飲とを飽くまで味ふなかれ、さらば欲は汝に{{r|鎮|しづ}}まりて汝は安きを得ん。 【188 から 201 まで未入力】 {{DEFAULTSORT:きとうせいせいしゆう わるそのふいいおよひいおあんのきようくん5}} [[Category:祈祷惺々集|95]] kp719hj510qqyar7q9uaavp4i7evuo0